陰キャりょうこのこころの宝箱

人生一度きり!生き様で人のこころを動かしたい!自分がもっているカードを活かす働き方、陰キャアラフォー主婦です。ASD、ADHD、マイノリティ、スピリチュアル等を綴ります。

【発達障害】苦しくなる思い出

2009年4月から社会人生活が始まり、
医療とは関係ない福祉畑で働き始めました。



職場ののんびり優しい雰囲気に恵まれ、
社会人生活をスタート。




しかし、社会人になって5か月後
母が体調を崩し、すでに末期の肺がんであることがわかりました。






只でさえ社会不適合な私が、
母の羅針盤がなく働くことは
生活が破綻するかもしれないと覚悟しました。




落ち続けた行政を
働きながら受けなおす事を考えていましたが、

何かをやりながらでは
自分のキャパシティでは無理でした。










社会人2年目の夏には、
母は服薬タイプの抗がん剤が効かなくなり
点滴の抗がん剤治療が始まりました。





冬には歩けなくなり、
ベッド上の生活でなるべく家で療養していました。



なるべく家で看ようと思いましたが、

ギリギリまで介護保険医療保険を使って
最後は病院でという選択をしました。






父が勤める病院で入院しており、
妹も私も仕事が終わってから夜9頃に
毎日病院にお見舞にいきました。







家族みんな働きながらだったので、
遂に妹も過労で入院してしまいました。









私もかなり疲弊しました。
食べる事で不安を紛らわしていました。





社会人になってからその時には
+13キロオーバーでした😱







病気が発覚して2年弱、






私が社会人3年目の6月に
母は亡くなりました。







55歳でした。






わたしはその後3年くらいは、
うつっぽかったです。



母がいることで繋がってい
た家族は
バラバラになってしまいました。





妹は近くにアパートを借りて住み始めました。









そして苦手な父の二人暮らしの生活が始まりました。







やっと社会人6年目の2014年の夏に
近隣の行政の試験を受けました。








筆記、小論文、集団討論、集団面接、個人面接を受けなんとか合格にこぎつけました。



自閉傾向の特性の一つだと思いますが、
一転突破力はあります。







学生時代、自己肯定感が低く、バカにされてるなと感じた私は自分自身に⭕️をつけてもらえたような気持ちでした。






2015年から働いた行政職









とにかく仕事ができませんでした。




体調も悪く受診したら
臨床心理士から発達障害の可能性を指摘されました。




医師の診断はおりていない状態で、職場に伝えたところ、そんな人はおいておけない。







こちらもそんな人にかまっている余裕はないと。



内容も、対象も、女性性を突きつけられる事に
嫌悪感を感じ、毎日残業、休日出勤。


ほんとに向いていませんでした。




同僚によるいじめもたくさんありました。


私自身空気が読みづらい部分もありますが、
大切にされていないことはわかりました。



遠回しに攻撃されたり、仲間外れにされたり、
ほんとに辛かったです。








仕事場で嫌な感じを感じたとしても、
家に帰ってからその嫌がらせの意味に気づき、





その場で自分を守る行動や発言ができず落ち込みました。





状況を認識するのにタイムラグがあります。







何度も人事や上司と面談をしましたが、

辞めてもらうの一点張りで、

専門職である以上期待する職務でないと困るとの事でした。







人事との話し合いの際、

会話を断りなく録音されました。









(後に主張しましたが)







結果、試用期間が伸ばされ年内で
退職する事になってしまいました。





行政の冷たさは信じられなかったです。







その後、旦那やその家族に後ろめたさを感じました。



しかし、旦那や義家族からは自分がほしい慰めの言葉は聞けませんでした。







義母には息子の為にしっかりしろと。
旦那には早く働けと言われ続けました。







鬼だと思いました。私は優しい義家族を期待していた事に気づきました。









みなさん、仕事ってついてみないとわからないですよね!人も内容も。







早かれ遅かれ、そこで仕事を続けることは
できなかったし、


無駄に長くいなくてよかったんだ。







自分を大切にしてくれる人を
私は大切にすると心に決めました。


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